2016.03.02 Wednesday
スポンサーサイト
一定期間更新がないため広告を表示しています
| - | | - | - | pookmark |
CALENDAR
SELECTED ENTRIES
RECENT COMMENTS
CATEGORIES
ARCHIVES
twitter
PROFILE
OTHERS
MOBILE
SPONSORED LINKS
|
low/raw+slow/throw
2015.01.13 Tuesday
正しさよりも
新しい年になりました。
去年もあまりブログを書けませんでした。引越しや新しい土地での生活、結婚式の準備で忙しかったのもありますが、自分の中に迷いがたくさんあったことが大きかったように思います。 「正しい結論」が出るまでは…とどこかで怯んでいました。 年が明けてみて急にすっきりしてきたことのひとつは、正しい結論なんてものはないな、ということ。 食べものは、わりと何でもあり。ただ、ほんとに何でもありってわけでもないし、かといって決まったかたちを提案できるわけでもなく…。 と逡巡していましたが、結局私が伝えるべきなのは、「こうすればいいですよ」ではなくて、「こんな風にしたら私の場合はこうなりましたよ」という話だったんだ! とすとんと腑に落ちたのです。 今のところ誰にでも有効だろうと胸を張って言えるのは「野菜をたっぷり、いろんな種類を食べること」なのですが、これだって例えば腸の疾患などで食物繊維が「悪」になるケースでは当てはまらない。 だからこそ情報を求めている方にできるのはアドバイスではなく、経験談なのだろうなと思うようになりました。 また去年は新しく知り合った好奇心旺盛な人々から「これはどんな風に身体にいいの/悪いの?」「何を食べればいいの?」と訊かれる機会が多々ありました。そのたびに分かる範囲で…と色々とお答えしてきたわけですが、基本的に「何を食べればいいか」よりも「何を控えたらいいか」の方が重要度が高いなと思うことが多かったです。サプリや健康食品も使い方によっては助けになってくれるでしょうけども、やっぱり食生活のベースが整っていないなら無意味です。お風呂に入らずにぼろぼろのところに香水をつけて「いい印象を持ってもらおう」とする試みのようなものというか… 「ベース」の知識として、添加物や質の悪い油は代謝に負担がかかるから避けるとか、質の良い調味料を使うとか、糖分の摂取には気をつけるとか、そういう王道はあるのですが、そういうもの全てあっけらかんと代謝して元気に生きている人もたくさん居るので必須事項でもないのですね。 代謝能力は人それぞれ。精神状況や環境も影響するでしょう。 正しさではなく、必要に応じて知識をとりいれて、なりたい自分になっていく。その材料として経験談があるのかな、と思いました。 こちらのブログには、「低血糖症」や「自分への虐待」で検索してたどりつく方が多いようです。そのときどきに一生懸命書いていますが、(自分の中では)古くなってしまった情報などもあります。参考になる物事があったならいいのですが… 今年は自分の経験についてもっとニュートラルに、客観的に、少しずつでいいから書いていけたらいいなと思っています。自分が経験したことがシンプルに、まっすぐに伝わるように。 2011.06.19 Sunday
テレビを離れた理由。
森達也さんの「メメント」を読んだ。 2011.06.07 Tuesday
マクロビオティックと私の、今のところの距離。
レシピを求めていらっしゃる方にはまるでどうでもいい文章なんですが、 2011.06.05 Sunday
基本指針
食べること、についてよく考える。
とても面倒くさい。 基本的に、人は食べなければ生きてはいけない。 「不食」を唱える人々もいるし、普通よりもずっと少なくしか食べない人もいる。その方が体は無駄な消化活動をしないのでずっとクリアになれるのだと。そういう人々に一時期はとても憧れた。たぶん宗教的な憧れのようなものだったと思う。宗教といっても特定の宗教のことではなく、いわゆるヌミノースというのか、自分の内側からやってくる「清らかなもの」への憧れみたいなもののこと。 とはいえ私はごく普通の人間で、どうしたって食べることから逃れられない。 というよりも、普通の人よりもずっと食べることと密接に関わっている。 何をどんな風に食べるか、ということにとても影響を受けやすい。 私たちは食べる。そして代謝する。消化し、同化し、排泄する。日々細胞は入れ替わり新しくなっていく。それは生きている以上避けられないことだ。それが時々面倒くさくなる。 生きていくことと同じだ。活動し、新しい何かと出会い、消化し、同化し、代謝する、そうやって自分を新しくしていく必要がある。生まれ落ちたその瞬間から、身体も心も日々変化し、ある意味では生まれ変わり続けることを強要されている。原則的に、そうしなければ生きていけない。そのことに時々押しつぶされそうになってしまう。 昔、人間社会の成り立ちがいまいち理解できなかった。今も少しそうだけど。 たとえばカレンダーの日付なんてとても疑わしい。みんなで勝手に決めただけのものだ。時間もそう。何か大掛かりな方法を使えば(つまり世界中の人間でそう思い込めれば)日付なんてひょいと動かせてしまう。私たちはカレンダーをベースに生きていてそれが当然と信じているけど、そんなものが全然意味を為さない共同体だって世界にはいくつもあるだろう。そしてそこでも恐らく、彼らは彼ら自身のカレンダー的なものを手にしている。 日付や時間だけではなく、どんな社会システムだって疑わしい。「公」という概念が不思議だ。そこに入ると、ほとんどの人はちゃんと社会的なペルソナを演じる。普段よりも真面目に、穏やかに、几帳面になる。家では郵便物なんて溜めっぱなしなのに、職場ではすぐに開封する。あまつさえ封筒をきっちり小さくたたんで捨てたりもする。家では別にやらない。職場だからといっていい子ぶっているわけでもなく、単にそうしたくなってしまうのだ。 そういうことが不思議。銀行も社会保障システムも信号も法律も全部仮初めのもののはずなのに、確からしい顔をして存在していることが。 でもそういうものを疑いだしたら、人間なんてうまく生きていけない。不安になる。社会共同体なんてものは「共同幻想」に過ぎないのだと、安全のためにみんなが信じているフリをしているものなんだと、昔国語の教科書かなにかで読んだような気がするけど、それを読んで「やっぱりそうだよな」と深く納得した。サマータイムの実施が取り沙汰されるたびに私がちょっと混乱してしまうのは、「動かしがたいはずのもの」があまりに簡単に動いてしまう感覚に不安を覚えるからだ。 そういう拠り所がないと、たとえ妄想や幻想でも安全が保障されていないと、うまく生きていけない。 だから日々変化し続けている自分が確実に「死」に近づいていくとしても、日常ではそんなことをいちいち意識しない。テロメアDNAが刻々と消費されていき細胞が死に向かっている現実を認識すれば、そこに囚われ続けてしまう。結局は全部が無駄になってしまう気がして、容易に動けなくなる。 「死を想え」というけれど、出来ればそんなこと忘れていたい。それが普通だろう。疲れる。他にいっぱい考えることがあるのに。 でも身体は訴える。私が不変だということを。今日食べたいものは昨日食べたいものと違う。何が必要なのかその日によって、季節によって、変わっていく。それを感受して実行する。怠ると自分が不快になる。不快どころか、まともに動けなくなったりもする。食べ物を選ぶなんておこがましいと思う。適当に食べたって普通の生活を維持している人はたくさんいるのに、そんな風にできないことを恥ずかしいと思う。でも現実がそうなのだから仕方ない。 少しずれたこの身体に考えさせられる。自分が欲しいもののこと。感覚を研ぎ澄ませること。生まれ変わり続けること。それから、与えられたものを、今自分が持っている身体を、どう使っていくかということを。 食べること、についてよく考える。 食事なんてあまりに日常的で卑俗な気が時々してしまう。でもそれは私の一部になるものだ。体内で同化されるものだ。影響を受けないわけがない。 何を食べるのか、あるいは何を食べないのか。何を自分が欲するのか。その欲求をどう叶えるのか。食事のことだけじゃない。生活の全部と繋がっているのだと思う。何かを体内に取り込むこと。その中で一番ダイレクトでわかりやすいのが食事というだけ。 生きていくために代謝していかなくちゃいけないたくさんのこと。 息が詰まりそう。面倒くさいと思う。でもそうしないではいられないなら、するしかないのだと思う。考えることを止めることはできない。 そんな風に、食べることがメインになるのかもしれないけれど、自分の欲求全般について、考えることを書いていければと思っています。疑ったり信じたり、目を開けたりつぶったりしながら。 |