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心と、身体と

自分の身体について、病気について、少しずつ書いてみようと思います。

書いてみたいことはたくさんあります。
恐らくは、伝えた方がいいこともたくさん。
ただ、経験の質も、量も、私の拙い脳みそで捉えるには
あまりにも複雑に込み入っていて、輪郭が曖昧で。
全体を見渡すことがとても難しい。

何かひとつのわかりやすいストーリーがあればいいのに。
いつもそう思います。
わかりやすい始まりとシンプルな骨組み、そして華々しい結末とカタルシス。

でも人の体験の多くがそうであるように、
私が見てきた(と思っているもの)もまたそんなふうにはできていません。
たくさんの糸が、それぞれ複合的な意味を含みながら束ねられていて
それを解説するにはひとつの観点からでは足りない。
と、直感的にそう思うのです。
その一部分だけを中途半端な言葉で切り取ってしまうと、
一番肝心なはずの本質を損なってしまうのではないかと
どうしても躊躇してしまう。

だから、一度に全部を書くのではなく、少しずつやってみます。
断片的なものの連なりであっても、
試みないよりはマシなのだろうと。



17歳のとき、「慢性疲労症候群(CFS)」と診断されました。
CFSとは、
「原因不明の強度の疲労が長期間( 一般的に6ヶ月以上)に及び継続する病気」
…と定義されているようです。
私の症状は、目覚めたときから歩くのさえ辛いくらいの身体の重さ、疲労感。
筋肉痛、関節痛、筋力の低下。
たとえばペットボトルが開けられないくらいに握力が弱っていたり、
自転車に乗れないくらいに脚力が衰えていたり。
そして、ほぼ毎日の微熱。
喉が痛くて声が出せない。光がまぶしい。
記憶力や集中力の極度の低下。
少し動いただけで、次の日から三日間は布団に縫い付けられたみたいに
ずっと寝たきりでいなければならなくなってしまう。

それから、精神的な問題。

17歳の夏の時点で、SDS(自己評価抑うつ尺度)テストで確か56点?くらい。
重度の鬱症状あり、とのこと。
もう14歳くらいから自分がおかしくなっている自覚はあって、
自分に生きている価値を見出せないとか、
うまく思っていることが表現できないとか、
周りと考えていることが違いすぎていて寂しいとか、
そういうある意味ではテンプレート的な「生き辛い」感覚がありました。
それがひどくなったのが16歳の頃。

授業中にもう何かが辛くて仕方なくて、一人でノートに目を落として、
長い髪に隠れてこっそり泣き始めたことを、今でもはっきり覚えています。
高校に馴染めなかったことも要因のひとつなのでしょう。
神戸の連続児童殺傷事件で
少年Aが自分を「透明な存在」と表現していたけれど、
それは少しも遠い感覚ではなかった。
私自身も自分の手が透けて見えるような錯覚を何度もしていました。
自分自身がそこにいない、どこにも繋ぎとめられていないような感覚。

自分はどんな価値あるものにもふさわしくない、と思っていました。
汚れていて、つまらなくて、惨めで、醜くて、うそつきで、みっともなくて、
きれいでもなければそれほど能力があるわけでもなくて、
親切心もなければ自己中心的で周囲を困らせてしまう存在なのだと。
空気も読めないしうまく世渡りも出来ない。

死んでしまいたいとも思ったけれど、
自殺という行動はあまりにも自己主張が強すぎる気がして躊躇われました。
だってそんなことをすれば絶対に誰かに迷惑がかかる。
家族にも後悔させてしまう。
そういう自発的な方法をとる権利なんて自分にはないのだと思って、
まだ自転車に乗れていた帰り道、見通しの悪い裏道の交差点を
なんの確認もせずに突っ切っていた時期がありました。
偶然轢かれてしまえばいいのに、ってどこかで期待して。
一度だけ、ちょっと本当に危なかったことがあたけれど、
驚いて急ブレーキを踏んだ相手の女の人の顔を見て、
ああこれだって結局は誰かに迷惑がかかるんだ、と思い直して
それからは飛び出すのを止めました。

急にふと解けるように身体が溶けて消えてしまって、
誰にも気づかれないまま、忘れ去られてしまえばいいのに。
毎日毎日そう思いました。
寝たきりになってからも、重たい布団に挟まれたまま
意志の力で心臓が止められればいいのに、って何度も試みました。
馬鹿みたいな話だけど、ひどく真剣に追い詰められていました。

ドストエフスキーを読みながらはらはら泣いて、
私も世界で一番惨めな存在になってしまいたいと思っていたのです。
惨めな生き物になって誰からも蔑まれていれば
自分の穢れが洗い落とされるんじゃないかって。
陽の当たる場所に私はふさわしくない。
白痴に生まれればよかったのに。
白痴になればいいんだ。
全部に対して笑っていよう。何をされても受け入れよう。
16歳の私は、そう決めたのです。

その時見ていた世界はいつもすごく遠くにあって、
平板で、音や光がぼやけていて、色合いも淡くくすんでいて、
自分だけが膜一枚こちら側の世界にいるような気がしていました。
見えるもの全部が眩しくて、向こう側に参加する権利なんか
私には絶対にないし、いつまでも手に入らないと思っていた。

でもそれと同時に、私はすごく傲慢でした。
自分以外の同級生たちがみんな軽薄に見えていて、
自分が理解されないことに怒っていた。
誰の考えもうまく受け入れられずに、自分から一人になることを選んだ。
それは強烈な自信のなさの裏返しだったのだと思います。


今になって、そんな精神状態に陥ったきっかけを探してみるのですが
どこにも見つからないのです。
あるいは私が忘れているだけなのかもしれないけれど。
いじめられたような経験もない。
(逆に、卑屈になってからは避けられるようになったけど。)
でもなぜか、物心ついた頃からずっと、
「本当の自分はすごく汚れた生き物で、それを隠しているだけなんだ」
と私は思っていました。
そしてそれは気がついたら手がつけられないくらいに大きく成長して、
心のすみずみまで根を張っていたのです。

でもここでは原因はあまり重要ではありません。

そう、別に私はここで「ウツ自慢」がしたいわけではないのです。
ただ私の棲んでいた場所について説明がしたいだけ。

それほど多くの数ではないけれど、様々な人と知り合ってきてつくづく思う。
人が心の奥底に何を隠しているかなんて、
外から見ただけでは絶対にわからない。
私自身も、私の目の前の誰かも。
はっとするくらい冷たく暗いものを抱え込んでいる人が確かに存在する。
人間は自分の心の世界にどんなものでも作り出せる。
それぞれオリジナルの地獄を作り出して、それを通してものごとを見ている。
ほかの何よりも自分に対して残酷な世界。
それは悪い夢に似ています。
自分にしか見えていないくせに、あるときには現実よりも生々しくて強烈。
周囲からは「目を覚ませばいいだけなのに」と
鼻で笑われてしまうくらいささやかな空回りにしか見えなかったりする。
でも、見ている本人にとっては、紛れもなく現実なのです。


CFSと診断されて、治療法を探してマクロビオティックにたどりついて、
私の身体も、心も、少しずつ改善されていきました。
というよりも、まったくのゼロから……いや、マイナススタートから
新しく組み立ててきたといってもいいくらい。
意図せず変わったものと、意図的に取り組んで変えてきたものと。

しかし私の身体ときたら、本当に頑固なのです。
不安定な時期が本当に長く続きました。
随分よくなったとはいえ、まだそれほど安定していない面もあります。
どうしてなの、って何度も思いました。
少しでもよくなりたいのに、どうしてこんなにいつまでも不安定なんだろう。
たとえば、ちゃんと食事が整えられてないからなんだろうか。
生活の質がよくないからなんだろうか。
骨格に問題があるの? 歯並びやかみ合わせ?
それとも、根本的な体質のせい?
両親とも身体が弱いし、小さい頃からめちゃくちゃな食事をしていたから?

あるいはどれもイエス。
でもたぶん、それだけじゃない気がしています。

10年近く(そう、いつの間にか10年)色々と取り組んできて思うのは、
自分を否定する心くらい強烈なものなんてなかったんだってこと。
心と身体は、恐ろしいくらい密接に影響しあっています。
純粋に身体的に言うなら、人が強度のストレスを感じ続けていると
ホルモン分泌が乱れ、内分泌系がうまく働かなくなり、免疫が落ち、
臓器の働きが悪くなり、代謝に問題が出て、自律神経も狂います。
でもそれはものごとの物質的な側面に過ぎない気がします。

自分を否定し続ければ、身体はそれに応えて弱くなる。
10年前の私は意志の力で心臓を止めることは出来なかったけれど、
別のレベルで同じことを達成していたのです。
人間の心は強烈です。
時間を止めたり、感覚を失うことさえ出来てしまう。
「イメージが現実を作る」のだと、最近はよく言われます。
自分の体験を鑑みれば、それは確かなことのように思えます。

もちろん、身体も大切です。
生活や動きが心を作っていく側面だって当然あるのだから。
身体のケアをすることは心のパフォーマンスに大きく影響します。
あたたかくてバランスの取れたご飯を毎日食べているだけで、
色んなものごとがよくなっていくのはきっと間違いのないこと。

でも私の場合、自分にとってのCFSという疾患を考えていくときに
心の存在を軽視することはできないのです。
CFSに関して、あまりに精神疾患を強調しすぎることで
「うつ病の一種」のような捉え方をされてしまう恐れがあることは
理解しています。
それが他のCFS患者さんに迷惑をかけてしまうことも。
でもそれを理解していても、やっぱり思うのです。
強すぎる無力感と自己否定が身体を蝕んでいくことの強烈さを
見過ごしていくことはできないって。


"健康"という言葉の意味をよく考えます。

私の身体は、とてもバランスが悪いです。
色々な要素がうまく噛み合っていないし、
すぐに不安定になります。
たとえば気候や精神状態、ちょっとした環境の変化。
身体と精神が徹底的にバランスを失うというのがどういうことなのか、
それがどこまで尾を引き、悪循環を繰り返していくのかを
私は身をもって実感し続けています。
気がつけば私についた「病名」は
CFSだの、化学物質過敏症だの、ADHDだの、
病気なのか病気じゃないのか境目が曖昧なものばかり。

病気とはなんだろう、と思うのです。
そして、健康とはなんなのだろう、と。


この文章には、はっきりとした結論はありません。
むしろ結論なんてずっと出ないまま、
もやもやを抱え込みながらこれからも考え続けていくような気がしています。
それはこの文章を書いている人自身、まだ悪い夢から醒めきっていないから。
それでもちゃんと答えが出るまで黙っているなんて色々と遅すぎるだろうから、
書きながら考えていけたらいいなと思っています。

そういうことに興味を持つ人が一体どれくらいいるのかはわからないけど。

| こころのこと | 22:10 | comments(6) | trackbacks(0) | pookmark |
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| - | 22:10 | - | - | pookmark |
はじめまして。
文さんとお母様のブログを何年も読ませてもらっています。

私もCFSを患って10年です。
そして、今回、文さんが身体と心のことを言葉にして外に表してくださって、私の中で何かがほどけました。
私が感じていて、でも表現できないものを表現してくれたから。ありがとう。
| shan | 2011/07/02 9:09 PM |
>shanさん
はじめまして。コメントありがとうございます。
10年って一口に言ってしまうけど、本当に長い期間ですよね。

あまりに暗すぎるかと思ったけれど、隠していても仕方ないので、書いてしまいました。一人にでも共感していただけたならすごく安心できます。ありがとうございます。
| 文 | 2011/07/03 8:36 PM |
これだけのことを文章にされるのは大変だったのではないでしょうか。
書かれていることはとてもよく分かります。
私も先日書かせていただいたように、拒食症かつ鬱病と診断されています。
この間は結局パンバイキングでなく、ひな野という和食バイキングに行きました。やっぱり食べ過ぎて2日ぐらい苦しみました…。おいしかったのですが(笑)

なかなか自分の精神的な部分まで書かれるるのはお辛いとは思いますが、それで呼んでいる側の心がほどけ、楽になることもあるということを知っておいて頂きたいと思い、コメントさせていただきました。
| ぽっぽ | 2011/07/04 11:32 AM |
>ぽっぽさん
コメントありがとうございます。
一番大変なところは通り過ぎたような気がするので、感情的な辛さはそこまででもないのですが、どれだけ重たくなるとしてもブログの前提として書いておかなければ!と思っていた文章でした。

ひな野、おいしそうですね。どうせ食べるなら好きなもの、おいしいものを、って思います。些細なことでも、それで自分を大事にしてるんだ、って思えることが大切な気がします。
| 文 | 2011/07/06 8:53 AM |
書くことで、自分を保っていた思春期。日記がお友達でした。でも、文ちゃんが自分で書いているとおり、私も傲慢だったのかも・・・思いを綴るのは、ある時までは必要だと思います。生きていくことは、いつも、疑問と納得の繰り返し?でも、それさえもなかったら、成長はしないと思う。答えが明快に出る人生なんて、そうそうあるもんじゃないかも。大抵の人は、答えを探すのを、途中であきらめてるのです。
| まいちゃん | 2011/07/11 7:40 PM |
>まいちゃんさん
そうですね。問い続けていくこと自体よりも、問い続けていく姿勢そのものに意味があるんだ、だからこれでいいのだ…と自分に言い聞かせている毎日です。
自分が成長しているのかどうかはわかりませんが、安易な納得もなんだかなぁと思うので、きっと懲りずに繰り返していくと思います。
| 文 | 2011/07/14 7:51 AM |









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