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傷つけないという選択。

去年から、紫蘇は庭で育てているものを使っています。
少し小さい葉だし硬いけれど、水さえやれば放っておいてもどんどん育つし、次の年からは落ちた種が勝手に生えてきます。
村上春樹さんのエッセイで、「外国のスーパーで紫蘇を見て『これはなんだ』と外国人に訊かれて、チョップしてサラダに使ったりすると香りが出ていいんだとか説明したけれど、その人は結局買わなかった。たぶん量のわりに値段が高い思ったのだろう」というくだりがあったけど、本当にこれはお金を出して買うようなものじゃないんだな、と思います。適当な土地でもどんどん育つのでどんどん食べられる。食欲がないときでも紫蘇がきいているとさっぱりと食べられるし、防腐効果もあるし、夏にぴったり。自然ってほんとにうまくできてるなー、と毎日庭に水撒きをしながら感心しています。未婚なのになんだかもうすっかり主婦。

たくさんある株の中から、とりすぎないように気をつけて紫蘇を摘んでいて、ふと以前読んだネイティブ・インディアンの本のことを思い出していました。
彼らが薬草を摘むときには、その薬草の「群れ」の「長」(がわかるらしい)にきちんと挨拶をして、そこで摘んでもいい量だけを摘むのだとか。たとえ欲しい量に達していなくても、許されている分を摘み終わったらまた別の場所に探しに行く。もちろんその量というのは「何グラムです」とか決まっているわけはなく、「ただ、わかる」のだそう。
「絶対の真理とは、他のものを傷つけてはならないということだ。自然にせよ、他の人間にせよ、自分にせよ、何かを傷つけるということはあってはならない。すべては共生するべきなのだ」
それがネイティブ・インディアンの世界観。



何も殺さないで生きていくのは不可能です。今みたいに「食肉」を、ひどい育て方で機械的に屠殺して、信じられないくらいに安い値段をつけて「もの」として流通させることにはさすがに違和感を覚えるけれど。
でも食事を変える前には特に何も思ったことはなかった。そもそも自分の中にそういう観点がなかった。だからこれはやっぱり「食べない側」寄りの意見なんだろうと思う。
ただ、どのみち動物を殺さなくたって植物を殺すことになるし、更にその植物を育てるために、虫がついてたら私はそれを殺すだろう。逃がすかもしれないけど。
「殺さないこと」は不可能。それでも、「生態系を傷つけないこと」ならできる。その範囲内でなら、私は、野菜でも肉でも食べていいんだと思う。たぶんそれが「許された量」なんだろうと。

話が急に飛ぶようだけど、震災以降、原発関連の話題があちこちで取りざたされるようになっている。「原発推進」対「反原発」、どちらにもどちらの言い分があって、その大体の論旨もなんとなくつかめてきた。
そしてその際にコスト試算や経済の話題に焦点が当てられることに、どうしようもなく違和感を覚えてしまう。

原発はコストが安い、と原発推進派は言う。
実のところ色々含めると原発のコストは寧ろ高くなる、と反原発派は言う。

私はそもそも、コスト論が安全性と似たような土俵に上がりこんでくることこそ、不思議なことのような気がする。
それは同居するようなものではなくて、まったくの別問題だ。
考えなくてはいけないことなのはわかる。産業に対する配慮は必要なんだろう。現実的なレベルで。
でもそれは安全性に関する話の「後に」やってくることだ。
数字なんて、扱う側の意図ひとつでいくらでも変えられる。
安全性は違う。もっと絶対的で、原則的な感覚の話だ。
もちろん脱原発にしろ、実行していくにあたってはそういう「数字」を扱うスペシャリストの助けは絶対にいるんだろうし、そういうレベルでの話自体が不要なものだと言いたいわけではなくて。

ただ、「未知の方法で生態系を傷つける」という選択肢を避けようとするために、どうして理屈が必要なんだろう…と、不思議に思うだけなのです。

原発に対する危機意識のようなものは、女の人の方が強い気がする。
それも「生物として」の危機感。
「原子爆弾が生み出されて人類の認識は変わった。
核の暴力は、個人への暴力を超えたものだ。
それは生物全体、人間という「種」そのものへの暴力なのだ。」
そういう観点を知ったのは田口ランディさんのエッセイだった。
それと似た種類の暴力の気配を、女性の方がずっと敏感に嗅ぎ取っているように見える。

穀物野菜主体で暮らすようになって、なぜかはわからないけど、「あ、自然ってすごいな」と以前よりもずっとしみじみ思うようになった。
だって夏に取れる野菜が、夏の身体を助けてくれるのだ。クールダウンして過ごしやすくしてくれる。夏に食べる夏野菜のおいしさときたら。自分でそんなもの作れと言われても、無理に決まってる。自然のくれるものがどれだけ大きいのかを、料理する人は知っている(と思いたい)。
それはどこかで「自分を超えている」ものごとだ。
大げさに言ってしまえば、「生かされている」という感覚でさえある。
そしてそれはどこか遠いところにあるものではなくて、毎日の生活の中でごく普通にわかること。
でもそういうのは、女の人の方がずっと実感できるものなのかもしれない。
それは女の人の方がより「今、ここ」で生活している性だからだ。

そして村上春樹さん(また出てしまう)がバルセロナで行ったスピーチで、
『我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。』
という言葉があったけれど、それは本当に私が感じていたことで、正しいことを正しいというために、データで理論武装して隙をなくして向かわなくちゃいけないなんて、なんだかおかしい。
最初に理想を見て何が悪いんだろう。

色んなことを見直し始める時期なのかな、とぼんやり思っています。
たとえば今よりもずっと女の人の感覚は大事になっていく気がする。
私は拙い頭で考え続けることくらいしかできないけど、
考えることは放棄しないでいたい。
そして悪いものを大声で糾弾するよりは、善いものを小さい声で励ましたい。
大体いつもそんなペースでものを考えています。

自然も他人も自分も、傷つけないようにできたらいいな、と。

| 日々のうたかた | 22:24 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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