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2011.06.19 Sunday
テレビを離れた理由。
森達也さんの「メメント」を読んだ。 2011.06.17 Friday
乳酸菌について。
豆乳ヨーグルトを作るようになったのは本当に偶然見つけたからで、 2011.06.07 Tuesday
マクロビオティックと私の、今のところの距離。
レシピを求めていらっしゃる方にはまるでどうでもいい文章なんですが、 2011.06.06 Monday
スイーツレシピの公開について。
私は「低血糖症」持ちです。
…と書いて、一体どのくらいの方が「なるほど」と思うのだろう。 低血糖症に関してはその内詳しく書いていきたいと思っているのですが、 とりあえずここで理解していただきたいのは 「基本的に白砂糖を摂らない」人だということです。 糖分の代謝がうまくいかない体質なんですね。 市販のお菓子は甘すぎて、私の身体にはよくない影響を及ぼします。 具体的には頭痛がしたり、集中力がなくなったり眠くなったり。 足がだるくなったり体が重い感じがしたりもします。 そういう影響を知らないうちに受けている人もたくさんいるみたいです。 食べなくなると、「これは毎日摂るようなものではないな」ということが しみじみ実感としてわかってきます。 でも甘いものは好き。 だから、お菓子は基本的に自分で作ります。 植物性の素材のみ、白砂糖の変わりにやさしい甘味料を使う。 そういうお菓子も最近ではそれなりに市販されているのですが、 毎回驚いてしまうのは、値段が高いこと。 大体がオーガニックの原材料を使っていたりするので 普通よりもずっと値段が跳ね上がってしまうのは仕方ないことだけど、 こんなに高かったら普通の人には絶対に続けられないよな。 と、外で見かけるたびにしみじみ思います。 それでいて普通の(バターや卵、白砂糖たっぷりの)お菓子に比べれば やっぱりインパクトは随分控えめになってしまうのだし。 それはやっぱり並んでいたら安くておいしい方を選びたくなってしまうもの。 自分で作れば、もうちょっと安上がりです。 しかも作るのはものすごく簡単です。時間もかからない。 安価で、作る楽しさも簡単に味わえてしまう。 味も…まぁ好き好きだと思いますが、 自分で作ったものは普通の味でもおいしく感じられます。 以前ある公民館でナチュラルスイーツの講座をさせていただいたことが あるのですが、その時いらしていたのはごく普通のお母さん方でした。 食事に気を使っている方もいれば、なんとなく興味があって来た、という方まで。 でも案外好評を頂いて。 3回シリーズの講座だったのですが、講座終了後のアンケートで 「教わったクッキーはアトピーの子どもを持つお母さんたちにもすごく好評で、 うちでの定番になりました。簡単なのにおいしくて助かります」 というお言葉を頂いたのがとても印象的でした。 私にしてみればなんということもないレシピ。 でも、ある人にとっては助かるものだったりもする。 というか、「やり方」を知らないだけの人がとても多いんだな、と思ったのです。 知っていれば案外簡単に実行できることなのに。 それを私だけが知ってるのって勿体無いな。 と、日々思うようになり。 でも今の私には講座をやるような体力気力情熱が不足しているのも事実。 なので少しずつネットで公開していくことにしました。 まぁ探せばいくらでもそういうレシピブログはあるのですが、 ここの特徴は「面倒くさがりで不器用な私でも日常的に作れるくらい簡単なレシピ」 ばかりだというところなのかもしれません。 ゆるゆる公開していきますので、生活の一助になれば幸いです。 2011.06.05 Sunday
基本指針
食べること、についてよく考える。
とても面倒くさい。 基本的に、人は食べなければ生きてはいけない。 「不食」を唱える人々もいるし、普通よりもずっと少なくしか食べない人もいる。その方が体は無駄な消化活動をしないのでずっとクリアになれるのだと。そういう人々に一時期はとても憧れた。たぶん宗教的な憧れのようなものだったと思う。宗教といっても特定の宗教のことではなく、いわゆるヌミノースというのか、自分の内側からやってくる「清らかなもの」への憧れみたいなもののこと。 とはいえ私はごく普通の人間で、どうしたって食べることから逃れられない。 というよりも、普通の人よりもずっと食べることと密接に関わっている。 何をどんな風に食べるか、ということにとても影響を受けやすい。 私たちは食べる。そして代謝する。消化し、同化し、排泄する。日々細胞は入れ替わり新しくなっていく。それは生きている以上避けられないことだ。それが時々面倒くさくなる。 生きていくことと同じだ。活動し、新しい何かと出会い、消化し、同化し、代謝する、そうやって自分を新しくしていく必要がある。生まれ落ちたその瞬間から、身体も心も日々変化し、ある意味では生まれ変わり続けることを強要されている。原則的に、そうしなければ生きていけない。そのことに時々押しつぶされそうになってしまう。 昔、人間社会の成り立ちがいまいち理解できなかった。今も少しそうだけど。 たとえばカレンダーの日付なんてとても疑わしい。みんなで勝手に決めただけのものだ。時間もそう。何か大掛かりな方法を使えば(つまり世界中の人間でそう思い込めれば)日付なんてひょいと動かせてしまう。私たちはカレンダーをベースに生きていてそれが当然と信じているけど、そんなものが全然意味を為さない共同体だって世界にはいくつもあるだろう。そしてそこでも恐らく、彼らは彼ら自身のカレンダー的なものを手にしている。 日付や時間だけではなく、どんな社会システムだって疑わしい。「公」という概念が不思議だ。そこに入ると、ほとんどの人はちゃんと社会的なペルソナを演じる。普段よりも真面目に、穏やかに、几帳面になる。家では郵便物なんて溜めっぱなしなのに、職場ではすぐに開封する。あまつさえ封筒をきっちり小さくたたんで捨てたりもする。家では別にやらない。職場だからといっていい子ぶっているわけでもなく、単にそうしたくなってしまうのだ。 そういうことが不思議。銀行も社会保障システムも信号も法律も全部仮初めのもののはずなのに、確からしい顔をして存在していることが。 でもそういうものを疑いだしたら、人間なんてうまく生きていけない。不安になる。社会共同体なんてものは「共同幻想」に過ぎないのだと、安全のためにみんなが信じているフリをしているものなんだと、昔国語の教科書かなにかで読んだような気がするけど、それを読んで「やっぱりそうだよな」と深く納得した。サマータイムの実施が取り沙汰されるたびに私がちょっと混乱してしまうのは、「動かしがたいはずのもの」があまりに簡単に動いてしまう感覚に不安を覚えるからだ。 そういう拠り所がないと、たとえ妄想や幻想でも安全が保障されていないと、うまく生きていけない。 だから日々変化し続けている自分が確実に「死」に近づいていくとしても、日常ではそんなことをいちいち意識しない。テロメアDNAが刻々と消費されていき細胞が死に向かっている現実を認識すれば、そこに囚われ続けてしまう。結局は全部が無駄になってしまう気がして、容易に動けなくなる。 「死を想え」というけれど、出来ればそんなこと忘れていたい。それが普通だろう。疲れる。他にいっぱい考えることがあるのに。 でも身体は訴える。私が不変だということを。今日食べたいものは昨日食べたいものと違う。何が必要なのかその日によって、季節によって、変わっていく。それを感受して実行する。怠ると自分が不快になる。不快どころか、まともに動けなくなったりもする。食べ物を選ぶなんておこがましいと思う。適当に食べたって普通の生活を維持している人はたくさんいるのに、そんな風にできないことを恥ずかしいと思う。でも現実がそうなのだから仕方ない。 少しずれたこの身体に考えさせられる。自分が欲しいもののこと。感覚を研ぎ澄ませること。生まれ変わり続けること。それから、与えられたものを、今自分が持っている身体を、どう使っていくかということを。 食べること、についてよく考える。 食事なんてあまりに日常的で卑俗な気が時々してしまう。でもそれは私の一部になるものだ。体内で同化されるものだ。影響を受けないわけがない。 何を食べるのか、あるいは何を食べないのか。何を自分が欲するのか。その欲求をどう叶えるのか。食事のことだけじゃない。生活の全部と繋がっているのだと思う。何かを体内に取り込むこと。その中で一番ダイレクトでわかりやすいのが食事というだけ。 生きていくために代謝していかなくちゃいけないたくさんのこと。 息が詰まりそう。面倒くさいと思う。でもそうしないではいられないなら、するしかないのだと思う。考えることを止めることはできない。 そんな風に、食べることがメインになるのかもしれないけれど、自分の欲求全般について、考えることを書いていければと思っています。疑ったり信じたり、目を開けたりつぶったりしながら。 |